使いみちのない風景 -4ページ目

買えない

コメントや周りの人たちの優しさに身震いします。

人の何気ない言葉の持つ影響力とか、喚起力って計り知れない。

応援してくれて、「書けよ」って言ってもらえるのはいま一番嬉しい。

どうやっても返せん、と思っちゃうくらい。

何でみんなそんなにすごいんだ!

テーマ?・・・外が好き?

お久しぶりです。

どうもここのネットカフェのキーボードは打ち辛くて嫌です。

精進する、と言ったものの更新が進まなくてへこみます。

誰かパソコン売ってください。月賦で・・

 

GWは長野に帰り、現在母親が勤めている農場に乗り込んで

お手伝いをさせてもらったりしていました。

実家の家業は農家です。

小さな頃からよくチョロチョロ邪魔をし、それは後に手伝いに変わり

高校を出た後もよく嫌々加勢させられたりしていたのですが

久しぶりの農作業でとてもとても楽しかった。癒されました。

青空の下で、体を動かして仕事をすることに

こんなに飢えていたのかと痛感し、やっぱ農業とか合ってるのかな、血だしな・・・

と思いつつ 筋肉痛で悲鳴を上げる体を引きずって東京に戻りました。

 

代々木公園のタイフードフェスでは

やはり昼間から野外でビールを飲み(何であんなにおいしいんだろう)

とりどりの屋台に目移り!!!凄い人で、活気があって、

居るだけで楽しかった。

同じ人ごみでもああいうところだと苦にならないのは不思議です。

突然土砂降りの雨に降られて、びしょびしょになり 

思いがけずワンピースを買ったりできたのも野外ならでは。

 

いいですね、外は。

広いし、空が見えるし、色んな匂いがするし、目に映るものの色が鮮やかだし。

外に机持ち出して仕事したい。

ところで何で幼児語では「おんも」って言うんでしょうね?

 

 

最近「スクール・オブ・ロック」を観ました。

同居人Mと興奮し、そのままロッカー気分で歌いながら

夜道をコンビ二へと走り、買ってきたビールを飲みながら

J.B.だのレッチリだのハイロウズだの2人の手持ちのロックを

かき集めてかけまくって、一夜を過ごしたりなどしている24歳です

 

2005年5月の愚痴

やりたいことを実現させようと、馬車馬のように働いています。

まるで時間を切り売りしているみたいです。


お酒に飲まれるように生活に飲まれているのが

地に足が着いていないようで不安でもあり、

疑問を投げかければ尽きませんが、

こういう時期があるのもいいか。


音楽をききながらブログに向かっている時間というのは癒されます。

紐を解いてるみたいに。

自分が戻ってきたーー という感じです。

もっとこの時間を増やしたい。






キネマの哀愁

人は一生の内に4つ、大きな過ちを犯す。

という大意があるように私には感じられた。

雄大な森と、湖と静寂に包まれた山寺で

老僧と暮らす一人の少年。

幼年期に業を知らず、

思春期には欲望と執着を覚え、

青年期には人を傷つけ、

壮年期に業を知る(不可逆的な意味では過ちとも言えるとおもう)

しかしどんな傷も苦悩も煩悶も、人間のものである限り、

やり直すことは出来ないからこそ美しいのだ。

ひとの一生の、

青春 朱夏 白秋 玄冬

「春夏秋冬そして春」

色鮮やかな東洋画のように澄んだ景色。

その中で四季の移ろいを人の人生と重ね合わせていく。

その旅路はとても非現実だけれど、かみひとえに現実的だ。

これは三軒茶屋の古い小さな映画館で見た。

「天国への手紙」と続けて観たのだけど、

少し前の映画を2本立てで流すような

古い映画館であるがゆえにシートは硬く、

見終わったころはすっかりお尻が痛かったけれどそれすらも

醍醐味みたいに思えた。

映画館にも一生、というものがあるなら

こちらはもう玄冬だろうか?

ロビーにあるレトロともなんとも言えないような灰皿や

壊れかけた券売機、日が入らないせいかすこしかび臭い雰囲気も、

それでいて高い天井も居心地がいい。

こういう所がすごく賑わっていた時代もあったんだろうな、と想像する。

そんな時代の名残だけ残した映画館で、現代の映画を見るのは、

言いようのない不思議な気分だ。

アクオスで昭和の漫才番組とかを観ているような感じだろうか。

いやいや

デジタルハイビジョンの横長フラット大画面から

のいる・こいるの掛け合いなんかが流れてきたら

ノスタルジーもなにもあったものじゃないだろうな。

融合すればいいってわけでもないようだ。

「春夏秋冬そして春」も「天国への手紙」も、この映画館で流されることに

旨く溶けていた。

おとうちゃん、知ってた?

三茶にもあるんだよ!

(しかも向かいにもう一軒)


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コーヒーと煙草の必然性

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 COFFEE&CIGARETTSを観た。

カフェを舞台に繰り広げられる、11本のショート・フィルムから成るリラックスムービー。

そのどれにも、コーヒーと煙草が必然的に登場する。

 

カメラが固定されているのかと思うくらい、

被写体との距離(何ていうんだろう?わからないけど)

が終始一定なので、まるで同じカフェの少し離れた席から

その登場人物たちのさまざまなやりとりを眺めているような気分になれる。

 

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今もコーヒーを飲み煙草を吸いつつこれを書いてます。

コーヒーと煙草の取り持つ人と人との間。

どんな場面にもコーヒーと煙草を添えるだけで、

少しだけ詩的に、あるいはコミカルに、はたまたドラマティックになる

というジャームッシュの視点に共感。

どうということのない風景だからこそ、噛めば噛むほど、的な味わいのある11本。

 

 

 

 

それはつまり生命力

バイオリズム」ってよく聞く単語だけれど、

なんとなーく運だとかツキだとか、

そういう実体のないものの波のことを言うのだと思ってました。

カタカナなので、まあ外国人の「星座とか宇宙系の占い師」

を自称する胡散臭いヴェールを被ったおばあさんが

「“バイオのリズム”。うん、なんか響きがいいしそれっぽいじゃん。使おう」

みたいな感じで言い出したのがもう狙い通りそれっぽく、広まったものなのかと。

 

ところが、これ大変失礼な勘違いで

バイオリズムはアメリカ科学アカデミー学会において承認されたという

科学的根拠また臨床心理に基づいた(世紀の大)発見だったわけで、

「国際バイオリズム協会」なんて

結局どんな活動をしてるのかよくわからない団体があるくらいです。

パワーストーンとかラッキーアイテムなんかの類にカテゴライズしていてどうもすみませんでした。

 

いきなりバイオリズムの話を始めたのは、

ブログの更新が滞っていたのはバイオリズムが低迷していたからだ、

などという言い訳をするつもりではありません。よもや。

なんかいつも言い訳臭くなるのは後ろめたいからでしょうか。

後ろめたい生き方。後ろ暗い生き様。

常に言い訳してるか謝ってるかの自分がイヤー!!

 

ごほん。そんなことはいいんです。

バイオリズムは「知性」「身体」「感情」の3つにおいて、

生まれた瞬間から死ぬまでの間一定周期で刻まれている高・不調のリズムを言うらしいです。

知性は33日。身体は23日。感情は28日。

これがそれぞれ好調と低迷の間で曲線を描き、

リズムに合わせて交差したり離れたりする中で

要所要所に<注意日><好調日>がある、と。

例えば知性の要注意日には判断力や思考力が弱まるので交渉事には向かず、記憶力も減退するため物忘れに気をつける、というように。

誕生日さえ分かればすぐ分かる、簡単!お得!な体内時計。

(アカデミー公認)

 

バイオリズムについて書かれた数あるサイトの中には

バイオグラフを参考にした人の匿名体験談が載せられているものもあり、

「好調日にパチンコ行ったら大勝ちした」(埼玉県・♂・36才)

「好調日に麻雀したら大勝ちした」(以下略)

「事故って鼻がもげて、後で見てみたら要注意日だった」

などそれこそパワーストーンだとか、悪くすれば絵とか壷とか幸運のミニ地蔵とか、そんなレベルの話と混同してしまいそうになるけれど

アカデミー賞です。

科学的です。

無料です。

何か大事なことや大きなことをやる時に、

バイオグラフを参考にしてみるのも一興かもしれません。

「生き様が後ろ暗い」と言い出すような要領の悪い人間は、

リズムに逆らわず、バイオの波に乗ってサーフィンを愉しむかの如く

過ごしてみたら意外といいのかもしれません。

 

更新の滞留において、

このブログを見てくださっていた稀少な方々には

申し訳ない、というか見捨てないで、という気持ちでいっぱいです。

精進して参りますので。

 

古城のほとりでおもうこと

凄く早かったけれど長い時間を過ごしたような、
何をしていたかも思い出せないくらい
めまぐるしかった気のする一週間でした。

毎晩遅くまで(むしろ早い。鳥の声が)同居人と、
下らないことを話し込んでは寝坊し猛ダッシュで仕事に行き、
帰るとまた同居人とビールを飲みつつ話をし
というだけなんですが。
濃かったというのとも違うけれど
慣れない環境で過ごしたせいなのか?
引越しをしたのがまるで1ヶ月くらい前のことのようで
けれどそのくらいあの部屋に馴染んでしまっています

シェア生活は楽しく、経過は良好です。
でもそう感じているのがもしかしたら私だけで、
知らずあの子に気を使わせてしまっていたらいけない、と思い
気をつけるようにはしているのですが
ずっとこういう気持ちを持ち続けていられれば大丈夫かな 
とも思います

マンションのすぐそばに、
大正時代に建てられたという駒沢給水所があり、
その時代の西洋建築らしく、モダンな意匠になっています。
大きな敷地内でぐるりと木に囲まれて建つ古びた、重厚なその給水塔は
「古城」とも呼べそうな雰囲気。

こうなるとすぐ夕焼けとか月とか言い始めてしまうんだけど、
夕焼けに映えたり、月がかかったりしたら益々よさそうです。

午前5時の駒沢通り

夜明けです。
写真が好きと言われてここぞとばかりに調子に乗っているあかNです
決してネタが無くなったわけではありません

このときは春の芽を携えた(かもしれない)樹が
白んできた空の逆光かはたまた後方の街灯のせいか
真っ黒なシルエットで浮かんでいて、
その輪郭が寒々しくてとてもきれいだった。
十字架なども浮かんでいた

最近通りばっかり。
道はどこまでも繋がっているのか

夕暮れのまち・目黒編

目黒。
写真下部の明るくなっているところが夕焼けで、
きれいな茜色だったのに
携帯の写真では100分の一も伝わらないなぁ・・

でも、その上部に拡がる空の色もなかなか好きだ。
夕暮れどきの東側、あの先はもう夜なんだ と思わせる
濃紺に少しの緑と透明を混ぜたような深い青。
山のあるところだと、山の端に向かって少しずつ濃く、深くなる。

茶屋坂をまわり、どこかの国の大使館の前を通り過ぎて
家につく頃はもう暗い。
雑司が谷の散歩は心あたたまるものだったけれど
それにもかかわらず、住処というのは何にも変えがたく安らぐ。

いつでもどこにでも行けるように身軽でいたい、なんて言いながら 
帰る場所があることに甘えていられて幸せだ。
このひとりでとことんぬくもれる体質がマズいとちょっとおもう。

桜の開花予想は3月27日です。

夕暮れのまち・目白編

目白。
雑司が谷・鬼子母神界隈を散歩した帰り道。
正確に言えば、友人から
「この辺の住宅街の一角で中古のルイガノを破格の値段で売っている」
という曖昧な情報を与えられて
2時間半ほっつき歩いて探したがなかった、という哀愁漂う帰り道。

そこらじゅうの店で聞いて回ったけど誰も知らなかった。
でも、みんな親切であそこの自転車屋が安いとか
区の運営するリサイクルセンターがいいだとかこぞって教えてくれた。
ありがとう、鬼子母神商店会のみなさん。

時間を気にせずにのんびり散歩したのは久しぶりだった。
都電の踏み切りの音は何か違っていて良い。