使いみちのない風景 -2ページ目

再開、そして欠陥という名の個性

ちょっと放置してたら、もう何でもいいから何か書きたくて

たまんなくなってくるものらしい。

ゆっくり再開します。

的確なつっこみを入れてくれたスタァ、

それに見ててくれた方々に感謝を。ありがとう。


いろいろ生活が不安定で、念願のパソコンをゲットしたにもかかわらず

ネットが繋がれていないのでソリティアばっかりやっています。最近。


そんなわけで、今日は かの本田宗一郎をして

「欠陥の多い人間は、特徴も多い人間だ」と言わしめた

人の「欠陥」という個性に焦点を当ててみよう!


鷹揚なつもりでいて、実は極めて偏狭。

それに加えて、筋金入りの独りよがり。

自由人でありたいと声を張り上げるくせに

社会から必要とされたい、などと密かに思っているのだから、

何ともせせこましく器の小さい自由人だ。

夢追い人にもなれず、犠牲を払って手に入れた現実の中で

自己の役割を遂行する大人にもなれず、

いつまでたっても理想と現実を天秤にかけながら微妙なバランスで

折り合いをつけていく、といったみみっちさ。


それでも、これが私が私であるところの所以だ、と自負したい。


本田宗一郎さんは何しろホンダの本田さんなので、

「欠点」と言う部分を「欠陥」と敢えて言うところも

ああ、やっぱりホンダだなぁ と思わされてしまうけれど(R25から引用)

車に限らずちょっと調子が悪くてポンコツの機械類って

たまにイラついて無生物相手にアホみたいに罵倒しながらも

やっぱり応援したくなっちゃうし、

その出来損ないっぷりが可愛くて手放せなかったりしませんか?


しかし本田氏の言葉の真意を読めば、

紛れもなくそういうことを言いたいのではなくて、

その欠陥をも活かしてしまうことが出来て初めて特徴と言えるのであって、

活かせる欠陥がたくさんあればそれこそそいつに代わる人材はいない程の

風変わりなエキスパートになるでしょうよ。

つまり私のように自分の欠陥をあげつらい

「どうよ!」とふんぞり返って後はぐうたらしているというのは

ただの勘違い、それどころか欠点の多い怠け者でかつ勘違い女という

何とも救いようのないひとになってしまうので私もこれらを何かに

活かすことができるかなーなんて考えてる所存です。



で 結局何が言いたいかっていうと、(伏線長すぎ)

そういう人の欠陥って、愛しいもんだなと。

勿論本人はそれについて煩悶したりしてるわけだから

いくら私だって自分の欠点を可愛い、とは思わないけれど

垣間見える他人の欠点は人間くさくて、とても好きです。

それを隠そうとする姿も晒け出してしまうことも、

またとても善良であると思う。

それが何かに活かされていようといまいと。




少しの間、

更新をお休みさせていただきます。

読んでくださっている方、有り難うございます。そして申し訳ありません。

落ち着いたら、またどんどん書いていきます。

すぐ再開するかもしれないし、しばらく書けないかもしれないけれど

遅くとも11月くらいには。


もっともっと興味深いことを、

読んでくれる人の心に何かを喚起させることができるような文章で、

書けるようになって帰ってきます。


人をつなぐ

初めてMIXIというものに参加してみた。

何故か恐々覗いている自分。

それは言葉も文化も違う国に一人で行って、

しらふでカーニバルに混ざっちゃったような錯覚。


どんなに遠い時間も距離も圧縮して

もの凄いスピードで、人と人が繋がる、初めて味わった感覚。

通常であれば、人と人が関わる、そのために重要な最たる因子

「出会うこと」をもいとも単純な作業で通過せられる。

なんだか、今自分が見て感じている、目の前にあるこの世界とは

全く別のものだ。はっきり言って、現実味がない。

だからこそ、その世界を肯定してしまえば面白い。


こういうことがある、ということを知らなければならないのか。

これは・・・マメじゃなくてもできるのか??



grappa di bassano

三宿にまたひとつ、バーがお目見えした。


店先に掛かったイタリアの国旗が目立ち、

一見ただのイタリアンバーかと思わせるが、

現地イタリアのバールをイメージして作られたというそのバーは

恐らく日本で最も豊富なグラッパを飲ませる店だ。

洞窟のような作りの小さな店内には、カウンター越しに

目見おもしろく個性的なグラッパの瓶が並んでいる。


    bassano2

イタリアに魅せられ、池尻に2店のオステリアを持つオーナーシェフが

毎年イタリアに足を運んでは買い集めてきたものばかり。

日本ではなかなかお目にかかれないご当地物も多く、

飲んでしまったら終わりというのも心憎い。

グラッパを飲んだことがなくても、好みを言うと百数種類の中から

マスターがいくつか薦めてくれる。

ブランデーなのでアルコールは強いが、

喉を通るときの一瞬焼けるような感触と、同じくらい強く嗜好に訴えてくる

葡萄の味わいは、何杯か頂くともう癖になってしまいそうだ。


     bassano1

ともすればマニア好みかと思われそうだが、

ビール好き、ワイン好きをも十分に楽しませる品揃えは

他ではなかなか無いこだわりを見せている。

料理はイタリアの惣菜を小皿で出してくれるチープなものから

珍しい内臓料理、もちろんパスタもある。

なかでも肉のパテの原型であるらしい、“レバーのガイエット”は絶品だ。

それに、種類豊富なイカスミ料理。

これが実はヴェネツィアの名物らしい。


水の都、運河の街と呼ばれるヴェネツィア。

そこから北西に約一時間ほど、

BASSANO DEL GRAPPAというグラッパで有名な小さな都市がある。

この街をそのまま店名に冠した、“grappa di bassano”


三宿の交差点から少し手前、池尻よりの路地を右折すると

3つのバーが軒を並べている。

その真ん中、ドアが広く開け放たれ、1時を過ぎても

ひときわ明るい光と音楽が漏れてくる。

料理、お酒、そのこぢんまりさにくすぐられ、

「見つけちゃって嬉しい」と思わせられる味なバールにも一票投じたい。

Talk to Cindy

昨年バグダッドで、ある一人の米兵が戦死した。

千八百幾人目になるのか  ケイシー・シーハン

私は彼と同じ年だ。


ブッシュ大統領は言う、

イラク、アフガニスタン、およびテロとの戦争で命を無くした

我が国の男女は、崇高な使命、無私の使命のもと死亡したのである」


唯一無二の息子を亡くした母、シンディー・シーハンは先月

テキサスのブッシュ大統領が夏休みを過ごす牧場の前で

キャンプを張った。

「自分の息子の命を奪った崇高無私な指名とは何ですか?」

「息子はどうして死んだのですか?」

という問いをブッシュ自身に投げかけたいがために。


それは石油だったか、星条旗だったか、それとも?


このニュースが全米に広まり、シンディーを

支援する人々の波はあっという間にうねりとなる。

数千人もの人々がテキサスに集まり、

キャンプには「キャンプ・ケイシー」という名がついた。


「私はブッシュ大統領に、息子の名前や家族の名前を

 更なる人殺しの正当化のために使って欲しくないのです、

 息子の名前や犠牲や名誉を更なる殺人の正当化に

 利用しないで欲しいのです。

 一人の母親として、どうして私が今経験していることを、

 イラク人であれアメリカ人であれ、

 他の母親もう一人にも経験して欲しいと望みますか?

 それに、私が彼に言いたいのは、

 息子の犠牲を讃える唯一の方法は、

 今すぐ部隊を帰還させることだということです。」


ブッシュ大統領は9月11日、きっとおごそかな顔つきで

その戦争の始まりであったそのテロの、追悼式典にあらわれ何を思うのか?

かれがシンディーに会うことはあるのだろうか。


米兵だけでない。現地イラクの兵隊、それを数で勝る民間人の犠牲。

これから先払われるかもしれない更なる犠牲、

今となっては、それを救える のもまたブッシュ大統領であるのに。



「Talk to Cindy!」と、メールを

comments@whitehouse.gov

に送ることもできます。




I was a YEH YEH GIRL!!

ERGARAR


家の近くに、24時間営業のタワレコが欲しい。

それと、24時間営業のジュンク堂。

地元にいた頃は、家の近くにタバコの自販機が欲しい!と

切実に願っていたのに。人間て欲張り。


I WAS A YEH YEH GIRL

買っちゃいました。ジャケ買いならぬタイトル買い。

アイ・ワズ・ア・イェイェガールって!

可愛い。こういうの大好き。

イタリアのラウンジ専門誌が企画したという

日本オリジナルのコンピですが、

70年代の匂いを漂わせたのポップな曲が満載。

4曲目でもうノリノリです。

朝っぱらからチャリを飛ばしながら聴いても、

夜、ビールを飲みつつ夏の終わりに思いを馳せながら聴いても。

お気に入り・・・

agerartwe

日曜日のこと

dsaf

nikki2


nikki3

nikki5

       

祭りのあと

夏はあまり好きじゃないけど、夏の終わりは好きです。

それは夏が好きじゃないから終わるのがうれしいのではなく、

夏が逝くときの景色の佇まいは、祭りのあとみたいで

過ぎ去った熱っぽさや、馬鹿馬鹿しいほどの暑苦しさだとかへの

郷愁がこみ上げてくるからかもしれない。

郷愁、という感情をかなり愛しているせいでもあるかもしれない。

何だかとても普通で些細なことに心を躍らされることがたまにあり、

今日はそういう日だったみたいで、

白い車を洗ってるおじさんやプール帰り、一人で歩いている子供の側を

自転車で通り過ぎては、なぜか無性に微笑ましくて

まだとても暑い最中なのに夏の終わりを感じていました。


         896o9tyo

秋はいちばん好きな季節です。

それはもう、気違いじみて好きです。

「今、季節は秋だ」ということだけで頬の筋肉が緩んでしょうがないくらい。

私の大好きな恵比寿という町にも、

個人的にはやっぱり秋がいちばん似合うと思う。

秋になったら何をせずともただ日がな一日、ブラブラと徘徊しようと

楽しみにしています。

それなのに、秋の終わりは寂しくない。

冬が来る、ということのほうが観念として強いからでしょうか。

そして冬が来ては逝き、春が来て、また私の嫌いな夏が来ます。

No seasons, No life !! なんて。



そうありたい #1

昨日、めったに乗らない大江戸線の車内で

たまたま、ものすごく大きなバックパックを背負った、

一人の女性が乗っていました。

旅行の帰りなんだな、と思ったのは、とてもとても疲れた顔をしていたから。

ちょっと目が離せなかったのは、そのバックパックが

彼女の3分の2はすっぽり隠すくらい大きかったからです


国内なのか、海外なのか。どれくらい旅をしていたのか。

その目でいろんな風景を見て、その足でいろんな地を歩いて、

そして今ここで地下鉄に乗っているその人は、

眉間に皺をよせてうつむいてる。


もちろんただ疲れているだけかもしれなくて、

通りすがりの他人がこんな風にみるのは失礼極まりないかと思うけれど

何だか、同じ事をしようとしている身としては少し複雑で、

幾つになっても、どんな状況にいても

自分を取り巻くさまざまなものに、

その状況や自分で選んでやっている事に、

際限なく興味を持っていたい と思った。

どうか、そういられますように。