母の買い物 | 使いみちのない風景

母の買い物

母が家を買った。

随分と思い切りのいいことをする人だ。

けれどいざ契約というときになって不安になったらしく、

一度見て気に入ったというその家を

二度、三度と見に行くのに私も付き合った。

安曇野の、小さな家と小さな畑。

風通しが良く、敷地の前には小さな並木道もあって、

家の周りは時季になれば野生の花が咲くということだった。

母の終の棲家になるであろう場所としては、とてもいい気がした。


父と別れ、祖父の家に身を寄せていた頃からの母の希望が、

子供たちがいつでも帰ってこられる家と、

自分の耕せる小さな畑を持つことだった。


現在はアパートで一人暮らしながら、車で30分ほどの農場に勤めている。

内に篭もるのが強い分、まるで反動のように行動力のある人で、

祖父の家にいた頃は離婚のことでくよくよと悩んでいたものだけれど、

一人になってからは旅行だ何だと出かけたり、竹細工を習ったり

心配して無理をするなという娘たちの言葉も跳ね除け農業の仕事に戻り、

挙句に予定より随分と早い家の購入。

有機農法もこれから本格的に学びたいと言うし、終いには

「お母さん合気道習おうかと思って」などと言い出す。

私の持つやけっぱちのような行動力も母親譲りかとは思っていたけれど

齢50を過ぎてこのバイタリティたるや、とおののいてしまう。


母がふさいでいた頃はよく祖父の家に行って顔を見せた。

「祖原のおじいちゃんち」と呼んで小さな頃は盆・正月と必ず訪れた

その家に行ったのは久しぶりだった。

縁側に腰掛けて見る庭の松やツツジ、ぎしぎしと鳴る板張りの黒い床。

幼い頃はそれが恐くて離れの部屋には入れなかった虎の置き物も、

まるであの頃から1mmも動かしていないかのようにそのままだ。

しんとして涼しい、家の中の気配

静まり返った田んぼ、その向こうの山から時々聴こえる鳥の声

ここだけは時が止まっている。

その感覚は、生まれ育った家とは全くべつの種類の

けれどやはり圧倒的な懐かしさをもたらしてくれる。


東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

という、私が生まれて初めて覚えた三十ひと文字が織り込まれた

暖簾もその場所から変わらずに掛かっている。

私の記憶にあるおばあちゃんという人は後妻さんだ。

妻を二度もなくしているのは祖父の方なのに、

米寿を祝い終えたいまも忙しく老人会のことで駆け回ったり

いつでも庭の手入れを怠らない祖父の気丈さというものが、

母に受け継がれていたのかとふと思う。


いつか私が子供を連れて母の家を訪れるようになり、

その子にとっての「安曇野のおばあちゃんち」が優しく、懐かしいものに

なればいいと願うと、少しおかしく、何故か寂しく、

時の流れってそういうものなんだな、としみじみ思ってしまう。

母の買ったものは、ただの「家」というそれ以上の、

なにか別の大きなものである気がしてならない。